第二章

新たな販路を求めて

第五節努力が巡り巡って舞い込んだチャンス

工場を広い敷地に移し、社名も忠治にちなんで「宮忠」と変えた昭和53年、関東のある通信販売業者から伊勢市の商工会議所を通じて、「宮忠さんのお宮を売りたい」と声がかかります。治正が以前、足を運んだ問屋とは無関係でしたが、あの努力があったからこそ、宮忠の名が知られることとなったのでしょう。商談を進めていくと、翌昭和54年の伊勢内宮神楽殿の竣工を受け、その翌年の昭和55年から、あの新商品の神棚を売り出したいとのことでした。

ところがその数は、毎月1000を継続的に造るというものでした。工場を広い敷地に移転したとはいえ、それまでの「年間1000」とは桁違い。建物、機械、材料、人手と、何もかも足りません。無理に引き受ければ信頼をなくすと考えた治正は、折角の引き合いを東京まで断りに出向きました。すると先方の担当者から開口一番、「新幹線に乗って来る暇があったら、一つでもつくれ!」と檄を飛ばされたのです。「そうは言っても、足りないものばかりで」と弱り果てる治正に、先方は「今すぐできた分から納品してくれたら、その分の代金を月内に振り込む」という取引条件を提示してくれました。そのおかげで、増産のための資金繰りの目途が立ったのです。

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